言語が変わることで思考が変わる。思考の可塑性と言語の関係

単語帳に溺れる日々とその先にあるもの

英語を学び始めた頃、私は「単語帳」にすべてを託していた。毎朝起きて単語を覚え、夜には復習し、アプリに記録し、翌日にはまた新たな語彙と向き合う。だが、その繰り返しはまるでバケツに穴が空いた水汲みのようだった。覚えても覚えても、忘却の波が襲ってくる。「これはいつか報われる努力なのか?」そんな疑念が胸をかすめることも少なくなかった。

ある日、ふと気づいた。自分は英語を“話す”ことも“書く”ことも“考える”こともしていない。ただ、単語の意味を「日本語で」覚えているだけだった。思考の言語が変わっていない以上、覚えた英単語は自分の内面で根を張ることができなかったのだ。それはあたかも、和式庭園に洋風の木を無理やり植えようとするかのようだった。

この気づきは大きな転機だった。語彙力を上げる前に、自分の思考の土壌を変えなければならない。英語を“外部”からの情報としてではなく、“内部”の思考の一部として取り込む。そのためには「思考と言語の関係性」について本質的に理解する必要がある。ここから、私の学びは単なる記憶作業から、思考そのものの再設計へと移っていく。

言語が思考を形づくる――サピア=ウォーフ仮説の示唆

言語が思考を形づくる。この一見当たり前のような命題は、しかしながら深い哲学と科学の根を持つ。アメリカの言語学者サピアと彼の弟子ウォーフが提唱した「サピア=ウォーフ仮説」は、言語が世界の認識の仕方に影響を与えるという視点を私に与えてくれた。

この仮説は、「思考と言語は分離できるものではなく、言語が思考の枠組みを提供する」という立場をとる。言語が変われば、思考の仕方、時間の捉え方、原因と結果の理解、自己と他者の境界認識までもが変わりうる。

たとえば、英語には明確な時制構造がある。“I eat,” “I am eating,” “I have eaten.” これらはすべて「食べる」という行為に関する文だが、時間軸上の位置づけが微妙に異なる。日本語ではこのような時間的ニュアンスを文脈や語尾に依存して伝える傾向が強い。私はこれに初め戸惑いを覚えたが、やがて「英語を学ぶとは、英語的な時間感覚で世界を捉える訓練だ」と気づく。

それからというもの、私は英語で物事を説明する際には、日本語的な発想を翻訳するのではなく、最初から英語的な思考でイメージを構築しようと努めた。これによって、単語はもはや「日本語の対応語」ではなく、「思考の部品」になり始めた。

この変化は、学習を「暗記」から「世界観の構築」へとシフトさせることを意味した。単語帳の外に出て、言葉を頭の中で動かし、実際に考え、話す。そのプロセスこそが、本物の学びだった。

思考の可塑性 ― 言語が脳を再構築する

私たちの脳は、驚くほど柔軟だ。これを「可塑性(plasticity)」という。これは、ただ知識を記憶できるという話ではない。神経細胞のネットワークそのものが、使用頻度や経験によって変化する性質を意味する。

言語を学ぶという行為は、単に新たな単語や文法を覚えることではなく、「新たな思考の道筋を脳内に築くこと」だ。心理言語学や認知神経科学の研究によれば、異なる言語を使用する人々は、注意の向け方や問題解決のアプローチ、さらには感情の捉え方さえも異なる傾向がある。

たとえば、ロシア語では青色に関して複数の語彙が存在し、それによってロシア語話者は青の違いを視覚的により鋭敏に識別できるという研究がある。また、中国語話者は時間を縦軸で捉える傾向がある一方で、英語話者は横軸で捉える傾向がある。

これらは単なる言語的差異にとどまらず、「どのように世界を構成しなおすか」という思考の枠組みの違いを表している。つまり、言語は「思考の道具」であると同時に、「世界の再構築ツール」でもあるのだ。

この認識を得て以来、私は言語学習を“訓練”としてではなく、“神経構築”として捉えるようになった。英語を話すたび、英語で考えるたび、私の脳は新たなパターンを形成している。そうして形成された英語的思考は、徐々に私の中で定着し、やがて「第二の思考回路」として働き始めた。

言語は記憶ではなく、思考を通じて定着する

では、英単語を本当に覚えるとはどういうことか? それは、単語を日本語に置き換えて覚えることではない。その単語を用いて、自分の考えを、感情を、疑問を「表現」できるようになることだ。

言語は意味の箱ではなく、思考の道具だ。つまり、単語を知っているということは、その単語を使って「考えることができる」ことを意味する。

たとえば “freedom” という単語を聞いて、「自由」と機械的に訳すだけでは不十分だ。その言葉が持つ文化的背景、使用される文脈、ニュアンス、社会的な価値観……そうした全体性をもって「freedom」という語が、自分の思考に根付くとき、はじめてその単語は「覚えた」と言える。

このようにして、私は単語帳を閉じた。代わりに、英語で日記をつけるようになった。英語で自分の考えを整理し、疑問を持ち、英語でググるようになった。音声も、動画も、論文も、英語のままで接するようになった。

その頃から、私の中で英語は「勉強すべき対象」ではなく、「もう一つの思考の場所」になった。英語で考えるとき、私は別の角度から世界を見ている。別の自分と対話している。

言語が変わることで思考が変わる。それは、英語を学ぶ動機を「点数」や「資格」から「存在の拡張」へと変える力を持っている。私が英語を学ぶのは、より多様な視点で世界を捉えるためであり、もう一人の自分を育てるためだ。

そして今日もまた、私は英語で考える。単語を覚えるためではなく、思考を深めるために。

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