なぜ私たちは「書くこと」に殺されかけるのか?〜MVDPという新たな航海図〜
こんにちは!海外でC#とWPFを武器に、日々コードと格闘しているITエンジニアです。
突然ですが、みなさん。「ドキュメント」、書いてますか?
そして、そのドキュメント作成に「殺されかけ」ていませんか?
特に日本から海外へ飛び出したばかりのエンジニアや、これから海外就職を目指している方にとって、この「ドキュメント」という壁は、想像以上に高く、分厚く、そして厄介な存在として立ちはだかります。
日本にいた頃を思い出してみてください。詳細設計書、単体テスト仕様書、結合テスト仕様書、操作マニュアル、引き継ぎ資料……。「Excel方眼紙」なんて言葉が揶揄されるように、日本の開発現場、特にSIer文化圏では「ドキュメントの厚さ=安心感の厚さ」という神話が根強く残っていますよね。網羅的で、誰が読んでも1ミリの誤解も生まないような、完璧な日本語で書かれたドキュメント。それを作り上げることこそが、プロフェッショナルなエンジニアの仕事の一部だと、僕たちは叩き込まれてきました。
しかし、海外に出るとその常識は通用しないどころか、足枷(あしかせ)になることさえあります。
僕自身、渡航した当初は本当に苦労しました。「英語で仕様書を書く」というだけで、日本語の3倍の時間がかかるんです。文法は合っているか、ニュアンスは伝わるか、Technical Term(専門用語)の使い方は正しいか……。Google翻訳やDeepLとにらめっこしながら、完璧なドキュメントを目指して深夜まで残業する日々。
でも、翌日のミーティングで何が起きると思いますか?
ネイティブのPM(プロダクトマネージャー)は、僕が必死で作ったその分厚いドキュメントをパラパラとめくり、こう言うんです。
「Great effort, but nobody reads this. Let’s just look at the code or the prototype.(すごい努力だね。でも誰もこれ読まないよ。コードかプロトタイプ見ようぜ)」
膝から崩れ落ちそうになりますよね。
「読まない? 誰も? 俺の昨夜の睡眠時間は?」
ここで気づくんです。海外、特にスピード感を重視するアジャイルな開発現場において、ドキュメントの価値基準は「網羅性」や「完成度」ではないのだと。「今、この瞬間の意思決定に必要かどうか」だけが問われているのだと。
英語が母国語ではない私たちが、ネイティブと同じ土俵で「文章量」や「表現の美しさ」で勝負しようとしても、勝てるわけがありません。そこで重要になるのが、今回ご紹介する**「MVDP(Minimum Viable Documentation Protocol)」**という考え方です。
スタートアップ界隈で有名な言葉に「MVP(Minimum Viable Product:実用最小限の製品)」がありますよね。完成品を作る前に、顧客に価値を提供できる最小限の機能を持った製品を出し、フィードバックを得ながら改善していく手法です。
MVDPは、そのドキュメント版だと考えてください。「実用最小限のドキュメント規約」。
これは単なる「手抜き」ではありません。
むしろ、限られたリソース(特に私たちの場合は英語力や時間)を、最もインパクトのある部分に集中投下するための、高度な戦略的判断です。
なぜ今、MVDPが必要なのか? それは、現代のソフトウェア開発の複雑さとスピードが、もはや「全ての情報をドキュメント化して維持管理する」ことを不可能にしているからです。
僕が担当しているC# WPFの現場でもそうです。WPFはXAMLという強力なUI記述言語を持っていますが、ViewとViewModelのバインディング、複雑なBehavior、非同期処理の制御……これら全てを詳細設計書に落とし込もうとすれば、コードを書く時間よりもドキュメントを書く時間の方が長くなってしまいます。しかも、仕様は毎日のように変わる。今日書いた完璧なドキュメントは、明日には「嘘」になっている。これではメンテナンスコストだけでプロジェクトが破綻してしまいます。
海外の現場では、「Working Software over comprehensive documentation(包括的なドキュメントよりも動くソフトウェアを)」というアジャイルマニフェストの価値観が、日本以上に徹底されています。
しかし、ここで誤解してはいけないのが、「ドキュメントは一切書かなくていい」わけではないということです。ここが非常に難しいポイントであり、多くの日本人エンジニアが陥る罠でもあります。
「書かなくていいと言われたから書かなかったら、後で『なぜこう実装したんだ?』と詰められた」
「引き継ぎ資料がなさすぎて、バグの原因調査に3日かかった」
こんな経験、ありませんか? 僕はあります(笑)。
つまり、「書かない勇気」と「書くべきポイントの見極め」、このバランス感覚こそがMVDPの真髄なのです。
これからお話しするブログシリーズでは、僕が実際に海外の現場で体験した「MVDPの実践事例」をケーススタディとして掘り下げていきます。
具体的には、次のようなシチュエーションを扱います。
一つ目は、**「複雑なシステム移行(Complex System Migration)」**の現場。
レガシーなシステムをモダンな環境へリプレースする際、膨大な既存仕様をどう解析し、どうドキュメント化(あるいは非ドキュメント化)して、移行を加速させたのか。ここでは、「地図」としてのドキュメントの役割に焦点を当てます。
二つ目は、**「カオスなスタートアップ(Startup’s Journey)」**での体験。
仕様が朝令暮改で変わる環境下で、ドキュメントのカオスから脱却し、デリバリー(リリース)を効率化するためにどうMVDPを適用したのか。「契約」としてのドキュメントではなく、「合意」としてのドキュメントのあり方を考えます。
そして三つ目は、「失敗からの学び(Learning from Failures)」。
MVDPを履き違え、必要な情報まで削ぎ落としてしまった結果、どのような痛い目に遭ったのか。そしてどう軌道修正(Course Correct)したのか。ここは涙なしには語れません。
このブログを通して、みなさんに持ち帰っていただきたいのは、単なるドキュメント作成のテクニックではありません。
**「情報の本質を見極め、最小限の労力で最大限の合意形成を行う」**という、エンジニアとしての普遍的なソフトスキルです。
英語でのコミュニケーションにハンデがある私たちだからこそ、言葉を尽くして説明するのではなく、図解やコード、そして「ポイントを絞った短い文章」で戦う必要があります。MVDPは、そのための最強の武器になります。
「英語が苦手だからドキュメントが書けない」と悩むのは、今日で終わりにしましょう。
「英語が苦手だからこそ、MVDPで勝負する」。
そのマインドセットの切り替えが、あなたの海外エンジニアライフを劇的に楽にし、そして評価を高めることにつながります。
さあ、準備はいいですか?
次回からは、具体的な現場の修羅場……いえ、ケーススタディへと足を踏み入れていきましょう。完璧なドキュメントをゴミ箱に捨て、必要なメモだけをポケットに突っ込んで。
泥沼のレガシー移行とスタートアップの混沌を救った「最小限」の衝撃
前回は、なぜ私たちが英語でのドキュメント作成に苦しみ、そしてなぜ「全てを書こうとする」ことが間違いなのか、そのマインドセットの話をしました。
「理屈はわかった。でも、実際に現場で『書かない』なんてことが許されるのか?」
「具体的に何を書いて、何を削ればいいんだ?」
今回はそんな声にお応えして、私が実際に海外の現場で経験した2つのケーススタディをご紹介します。一つは「大規模レガシーシステムの移行案件」、もう一つは「カオスなスタートアップでの新規開発」です。
全く異なる2つの戦場で、MVDP(実用最小限のドキュメント規約)がどう火を噴いたのか。C#とWPFのコードの匂いを感じながら、読んでみてください。
Case Study 1: The Migration Monster
〜終わらないWinFormsからWPFへの移行、そして「仕様書」という名の樹海〜
最初の事例は、私が渡航して間もない頃に参加した、ある物流系企業の基幹システムリプレース案件です。
プロジェクトのミッションはシンプル。「15年継ぎ足された秘伝のタレのようなWinForms(Windows Forms)アプリを、モダンなWPF/MVVMアーキテクチャに書き換えること」。
C#エンジニアなら「あるある」と頷くシチュエーションですよね。しかし、そこには地獄が待っていました。
The Trap:完璧主義が生んだ「解析麻痺」
プロジェクト当初、チームは「正攻法」で挑もうとしました。
「まずは既存のWinFormsの挙動を全て解析し、詳細な機能仕様書(Functional Specification)に落とし込む。その上で、新しいWPFのUI設計書を作る」というアプローチです。
チームリーダー(生真面目なイギリス人)は言いました。
「We need to document everything to avoid regression bugs.(デグレを防ぐために、全てをドキュメント化する必要がある)」
私は日本人としての几帳面さを買われ、既存コードの解析とドキュメント化を任されました。しかし、コードを開いて絶望しました。InitializeComponent() の後に続く、3000行のイベントハンドラ。ビジネスロジックとUI操作が密結合したスパゲッティコード。ドキュメントなど当然ありません。
私は必死に英語で仕様書を書きました。
「ボタンAを押すと、DBのテーブルBを参照し、条件Cの場合のみ……」
拙い英語で、スクリーンショットを貼り付け、矢印を引き、Wordファイルは数百ページに膨れ上がりました。
しかし、2ヶ月経っても開発は始まりませんでした。なぜか?
**「ドキュメントのレビューが終わらないから」**です。
仕様書が分厚すぎて、誰も読む気力が起きない。さらに、英語のニュアンスの違いで「これ、どういう意味?」と毎日質問攻めにあう。
そうこうしているうちに、現場からは「現行システムに機能追加してくれ」という要望が来て、解析していたコード自体が古くなる。
完全に「Analysis Paralysis(分析麻痺)」に陥っていました。
The MVDP Solution:ドキュメントを「地図」にする
プロジェクト存続の危機に瀕した時、新しく入ってきたテックリードが方針を180度転換しました。
「Stop writing novels. Start drawing maps.(小説を書くのはやめろ。地図を描け)」
彼が提唱したMVDPアプローチは衝撃的でした。
- 既存仕様書は書かない、コードが正解(Source of Truth)だ
- 既存のWinFormsの挙動を文章にするのを禁止されました。「読みたければ元のC#コードを読め。それが唯一の真実だ」と。
- その代わり、「入力と出力のデータマッピング」だけをExcel(またはスプレッドシート)にまとめました。これが「地図」です。
- ロジックの複雑な部分は、文章ではなく「フローチャート(Mermaid.js)」だけで表現しました。英語の説明文は箇条書きで3行以内。
- UI仕様書は「アノテーション付きスクショ」で済ます
- WPFのXAMLを一から設計してワイヤーフレームを作るのをやめました。
- 現行システムのスクリーンショットを撮り、そこに赤ペンで「ここはComboBoxに変更」「ここは非表示」と直接書き込んだものを「UI仕様書」としました。
- 「綺麗なドキュメント」を作る時間をゼロにし、「変更点(差分)」だけを可視化することに全振りしたのです。
- WPFの「Behavior」と「Converter」こそがドキュメント
- これがC#エンジニアとして一番痺れたポイントです。
- 「ボタンを押したら色が変わる」といったUIロジックをドキュメントに書くのではなく、再利用可能な
BehaviorやIValueConverterとして実装し、そのクラス名自体をドキュメント代わりにするのです。 - 例えば、
TextBoxEnterKeyBehaviorというクラスがあれば、仕様書に「Enterキーでフォーカス移動」と書く必要はありません。コードが雄弁に語るからです。
Result:スピードは正義
このMVDPへの転換により、私たちのチームは「英語を書く時間」から解放されました。
仕様の確認は、分厚いWordファイルではなく、画面キャプチャとフロー図を見ながら行われるようになりました。
「Look at this flow. Is this correct?(このフロー見て。合ってる?)」
これなら、私の拙い英語でも十分に議論できます。
結果として、半年遅れていたプロジェクトは、その後3ヶ月でプロトタイプを完成させ、無事に軌道に乗りました。
「ドキュメントは、コードを補完するものであり、コードの翻訳であってはならない」
この教訓は、今の私のエンジニア人生の指針になっています。
Case Study 2: The Startup Chaos
〜朝令暮改のスタートアップで「ドキュメント」はどう生き残るか〜
次の事例は、現地のスタートアップ企業での経験です。
ここでは移行案件とは真逆の、「まだ世の中にないものを作る」プロジェクトでした。C# WPFを使った、ある専門機器の制御アプリケーション開発です。
The Chaos:情報の賞味期限は3日
スタートアップのスピード感は異常です。月曜日に決まった仕様が、水曜日には「やっぱりナシ」になり、金曜日には「全く別の機能」が求められる。
ここでは「仕様書」なんて書いている暇はありません。書いた瞬間からゴミになるからです。
当初、ドキュメントが全くない状態(No Documentation)で開発が進んでいました。
しかし、チームメンバーが増えるにつれて問題が起きました。
「なぜこのクラスはシングルトンなんだ?」
「なぜここでPrism(MVVMフレームワーク)のEventAggregatorを使っているんだ?」
新入りが入るたびに同じ説明を口頭で繰り返す。そして、初期メンバーが辞めた瞬間、そのコードは「誰も触れないブラックボックス」化する。
完全なカオスです。
The MVDP Solution:「Why」だけを残す技術
ここで導入したMVDPのコンセプトは、**「HowではなくWhyを残す」**です。
「どう動くか(How)」はコード(C#)とXAMLを見ればわかります。しかし、「なぜそうしたのか(Why)」はコードからは読み取れません。
そこで私たちは、以下の3点に絞ってドキュメント化を行いました。
- ADR(Architecture Decision Records)の導入
- これはGitのリポジトリ内にMarkdown形式で保存する、軽量なドキュメントです。
- テンプレートは極めてシンプル。「Context(背景)」「Decision(決定事項)」「Consequences(結果/影響)」の3つだけ。
- 例えば、「WPFのDataGridが重い問題」に対して、「UI仮想化をONにする決定」をしたとします。
- Title: Use UI Virtualization for Log Grid
- Context: ログが1万行を超えるとUIがフリーズする。
- Decision: 標準のDataGridの仮想化プロパティを有効化する。3rdパーティ製のGridはコスト高なので見送り。
- Status: Accepted
- これだけです。英語で5行程度。でも、これがあるだけで、後から来た人が「なんで3rdパーティ製を使わなかったの?」と悩む時間をゼロにできます。
- README駆動開発
- 機能を作る前に、リポジトリのREADME(またはWikiのトップ)に、「ユーザーはどうやってこれを使うか」という数行のストーリーを書くことを義務付けました。
- 詳細仕様ではなく、「User Story」レベルのものです。これがエンジニア間の認識合わせ(Alignment)に役立ちました。
- 動画(Video)の活用
- これが海外で特に有効なテクニックです。
- 複雑なセットアップ手順や、UIの挙動バグの報告には、テキストではなく「画面録画(LoomやMicrosoft Teamsの録画)」を使いました。
- 「I see a weird behavior here…(なんか変な動きしてるんだけど…)」と呟きながら操作を録画し、そのURLをチケットに貼るだけ。
- ネイティブ相手に、不具合の事象を文章で正確に伝えるのは至難の業です。動画なら一発です。「百聞は一見にしかず」は、言語の壁を超える最強のツールです。
Result:オンボーディングコストの激減
この「Why重視・動画活用」のMVDPにより、新しく入ったメンバーのオンボーディング(立ち上がり)が劇的に早くなりました。
「とりあえずADRフォルダを読んで、セットアップ動画を見ておいて」と言えば済むからです。
スタートアップにおいて、ドキュメントは「契約書」ではありません。「チームの記憶」です。
記憶を呼び覚ますための最小限のトリガーさえあれば、あとはコードが語ってくれます。
「承」のまとめ:英語ハンデを武器に変える
2つのケーススタディを通して見えてくる共通点は何でしょうか?
それは、**「テキスト(文章)への依存度を極限まで下げる」**ということです。
レガシー移行では「図とマッピング表」に、スタートアップでは「ADR(決定記録)と動画」に置き換えました。
これは、私たち非ネイティブエンジニアにとって、とてつもなく大きなメリットです。
英語の文章をひねり出す労力を、図を描くことや、コードを綺麗に書くことに回せるからです。
そして面白いことに、このスタイルはネイティブのエンジニアからも大歓迎されます。彼らだって、長ったらしい英語のドキュメントなんて読みたくないのです。
「お前のドキュメントは、シンプルでわかりやすい(Your documentation is straightforward.)」
そう言われた時、私は確信しました。MVDPは、手抜きではなく、洗練なのだと。
しかし、良いことづくめに見えるMVDPにも、落とし穴はあります。
「最小限」を見誤り、「必要なことまで書かない」という過ちを犯した時、プロジェクトは静かに崩壊へと向かいます。
次回の「転」では、私が犯した**「MVDPの失敗事例」**を赤裸々にお話しします。
「書かないこと」が「怠慢」に変わる境界線はどこにあるのか。
痛みを伴う教訓から、真のMVDPのバランス感覚を学んでいきましょう。
「書かないこと」の代償〜MVDPがただの怠慢に変わる瞬間〜
ここまで、「完璧なドキュメントなんていらない」「コードこそが真実だ」と、MVDP(実用最小限のドキュメント規約)の有用性を声高に叫んできました。
これを読んで、「よし、明日からドキュメント作成は全部サボろう!」と思った方。
ちょっと待ってください。そこで止まってください。
実は、私にはまだ語っていない「続き」があります。
MVDPという「魔法の杖」を手に入れた気になっていた私が、その杖で自分の頭を思い切り殴打することになった、ある失敗の物語です。
これは、MVDPが「効率化の武器」から「怠慢の隠れ蓑」へと変貌してしまった、苦い記憶です。
The Incident:沈黙したWPFアプリケーション
〜「コード読めばわかる」が生んだ、本番環境の悪夢〜
それは、ある金融系クライアント向けのWPFアプリケーション開発での出来事でした。
私はそのプロジェクトで、リアルタイムの株価データを処理し、チャート描画を行うコアモジュールの設計を担当していました。
マルチスレッド処理、非同期データのマーシャリング、メモリ管理……C#エンジニアとしての腕の見せ所です。私は自信満々で、かなり複雑かつ高度な実装を行いました。
WPFの Dispatcher の負荷を下げるために、バックグラウンドスレッドでデータ加工を行い、UIスレッドへの同期には独自のロック機構とバッファリングロジックを組み込みました。
「この実装は完璧だ。美しい」
そう自画自賛していた私は、ドキュメントに関しては完全に「MVDP(という名のサボり)」を決め込んでいました。
複雑なスレッド同期のロジックについて、仕様書はおろか、コード内のコメントすら「数行」程度。「Why(なぜそうしたか)」を書かず、「What(何をしているか)」はコードを見れば自明だと思っていたからです。
「エンジニアなら、このコードを見れば意図は伝わるはずだ」
「英語で長々と説明を書くより、C#の方が万国共通語だろ?」
そんな奢りがありました。
事件が起きたのは、私が別のプロジェクトに異動して半年後のことです。
「本番環境でアプリがフリーズする。再起動しないと直らない」という緊急連絡(P1 Incident)が入りました。
原因調査に当たったのは、私の後任として入った、優秀な若手エンジニアのAlexでした。
彼は数日後、疲れ切った顔で私にこう言いました。
「Your code… it’s like a puzzle box. I tried to refactor the lock mechanism because it looked redundant, and now everything is broken.(君のコード…パズル箱みたいだよ。ロック機構が冗長に見えたからリファクタリングしたら、全てが壊れたんだ)」
なんと、彼は私が「あえて」複雑にしていたロック機構を、「無駄な処理」と判断して削除してしまっていたのです。
その結果、特定のタイミングでレースコンディション(競合状態)が発生し、デッドロックを引き起こしていました。
私は反論しようとしました。「コードをちゃんと読めば、あのロックが必要な理由はわかるはずだ!」と。
しかし、その言葉は喉元で止まりました。
なぜなら、彼の画面に映し出された私のコードには、「なぜここでこのロックが必要なのか」という説明が、一行たりとも書かれていなかったからです。
あるのは、複雑怪奇なロジックだけ。
彼から見れば、それは「意図された設計」ではなく、「前任者が残した汚いレガシーコード」にしか見えなかったのです。
The Realization:MVDPの「V」を見落とすな
この事件で、私はクライアントから厳しく叱責され、チームからの信頼も一時的に失いました。
深夜のオフィスで、Alexと一緒にデバッグをしながら、私は痛烈な事実に直面しました。
私は「Minimum(最小限)」ばかりを追求し、**「Viable(実用的・生存可能)」**という最も重要な要素を無視していたのです。
MVDPにおける「Viable」とは、「プロジェクトが生存し続けるために必要不可欠なレベル」を指します。
私が書かなかった「複雑な並行処理の設計意図」は、プロジェクトの生存に関わる重要情報でした。それを「書くのが面倒くさい」「英語が難しい」という理由で省略したのは、効率化ではなく、ただの**「職務怠慢(Laziness)」**だったのです。
「英語が苦手だから書かない」
「アジャイルだから書かない」
「コードがドキュメントだから書かない」
これらは全て、甘美な言い訳です。
海外の現場において、ドキュメントを書かないことは「カッコいい」ことでも何でもありません。
**「未来のチームメイト(あるいは未来の自分)への説明責任を放棄する」**ことと同義なのです。
Course Correction:失敗から導き出した修正
この手痛い失敗を経て、私は自分のMVDPの定義を大きく修正(Course Correct)しました。
「書く・書かない」の判断基準を、「自分の労力」ではなく**「情報の複雑性とリスク」**に置くようにしたのです。
具体的には、以下の3つの基準を設けました。これを知ってから、私の「書く判断」は劇的に精度が上がりました。
1. 「暗黙知の地雷原」には旗を立てろ
コードを見ただけでは絶対にわからない「背景」や「制約」がある場所。ここだけは、どんなに拙い英語でも、どんなに長くなってもドキュメントを残すと決めました。
- 「なぜ標準のライブラリを使わず、自作したのか?」
- 「なぜここで、あえてパフォーマンスの悪い処理をしているのか?(バグ回避のため?)」
- 「この定数
500msの根拠は何か?」
これらは、コード(How)からは読み取れません。この「Why」こそが、ドキュメントにすべき最優先事項です。これを書かないMVDPは、ただの手抜きです。
2. コメントは「謝罪」か「警告」であれ
以前は「ProcessData() // データを処理する」といった無意味なコメントを嫌っていましたが、今は「感情」を乗せたコメントを積極的に書くようにしています。
// WARNING: Do NOT touch this lock. It prevents a race condition with the UI thread. See Ticket #123.(警告:このロックに触るな。UIスレッドとの競合を防いでいる。チケット#123を見よ)// SORRY: This looks ugly, but the 3rd party API requires this specific format.(ごめん:汚いコードだけど、サードパーティAPIがこの形式を要求してるんだ)
カジュアルな英語でいいんです。これがあるだけで、Alexのような悲劇は防げます。「触るな危険」のテープを貼る感覚です。
3. 「使い捨てのドキュメント」と「資産のドキュメント」を分ける
全てのドキュメントを永続させようとするから辛くなります。
私はドキュメントを明確に2つに分けました。
- Temporary(使い捨て): ミーティングのホワイトボードの写真、Slackのログ、実装直前の走り書きメモ。これらは、機能が実装されたら役目を終えます。綺麗に清書する必要はありません。
- Evergreen(資産): アーキテクチャ図、API仕様、そして前述の「複雑な仕様のWhy」。これらはメンテナンス対象として、コストをかけて更新し続けます。
「資産」にすべき情報を「使い捨て」感覚で扱ってはいけないし、逆に「使い捨て」でいい情報を綺麗に清書して「資産」ぶってもいけない。この仕分けこそが、プロのスキルです。
「転」のまとめ:省略の美学と責任
MVDPは、決して「サボるための免罪符」ではありません。
それは、**「どこにリソースを集中投下すべきかを見極める、冷徹なリスク管理手法」**です。
「何も書かない」のが正解なのではなく、「どうでもいいことは1秒も書かず、本当に重要なことには命をかけて書く」。このメリハリこそが本質です。
私が犯した失敗は、MVDPの「M(Minimum)」を「Zero(ゼロ)」と履き違えたことでした。
その結果、チームに混乱をもたらし、自分自身の評価も下げてしまいました。
しかし、この失敗があったからこそ、私は本当の意味で「海外で通用するエンジニア」になれた気がします。
英語が流暢に話せなくても、「ここは危険だ」「ここは重要だ」というポイントを的確にドキュメントで指摘できるエンジニアは、現場で重宝されます。それは、言語能力を超えた「エンジニアリング能力」の一部だからです。
さて、長い旅もいよいよ終わりです。
「書かない勇気」を持ち、失敗を経て「書くべき責任」を学んだ私たちは、明日からどう行動すればいいのでしょうか?
最終回となる「結」では、これまでの話を総括し、明日から皆さんの現場で使える具体的なアクションプランと、このMVDPという考え方があなたのキャリアにどう影響するかをお話しして締めくくりたいと思います。
ドキュメントは、あなたを苦しめる鎖ではありません。
使い方さえ間違えなければ、あなたとチームを守る最強の盾になるのです。
ドキュメントは「成果物」ではなく「対話」である〜明日から使えるアクションプラン〜
長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございます。
ここまで、「完璧を目指して自爆する日本人エンジニア(起)」「図と動画で切り抜ける成功体験(承)」「必要なことまで削って失敗した教訓(転)」と、私の海外での恥も涙も全てさらけ出してきました。
C# WPFエンジニアとして、異国の地でコードを書き続けてきた私が、このシリーズの最後にお伝えしたいこと。
それは、MVDPという手法の奥にある**「エンジニアとしての生き様」**についてです。
最終回となる今回は、概念論ではなく、明日あなたがオフィス(あるいはZoomの画面)に向かったその瞬間から使える「具体的なアクションプラン」と、この思考法があなたのキャリアにもたらす「真の価値」についてお話しします。
The Paradigm Shift:ドキュメントの「定義」を書き換えろ
まず、脳内の設定ファイルを書き換えてください。
日本、特にSIer文化において、ドキュメントとは「成果物(Deliverables)」でした。
納品のために必要で、検収印をもらうために必要で、瑕疵担保責任を回避するために必要な、いわば「守りの盾」であり「契約書」のような存在。だからこそ、重厚長大で、ミスのない完璧なものが求められました。
しかし、海外のアジャイルな現場において、ドキュメントの定義は全く異なります。
ドキュメントとは**「対話(Dialogue)」です。
そして、チームをゴールへ導くための「橋(Bridge)」**です。
橋は、渡れればいいんです。
大理石で作られた立派な橋である必要はありません。丸太一本でも、向こう岸に渡れれば機能は果たします。
逆に、どんなに装飾が美しい橋でも、途中で途切れていたり(情報不足)、渡るのに時間がかかりすぎたり(長すぎる文章)すれば、それは無価値です。
MVDPの本質は、ここにあります。
「英語が苦手な私たちが、いかにして素早く、頑丈な丸太の橋をかけるか」。
文法なんて間違っていてもいい。スペルミスがあってもいい。
「この設計で進めていいか?」「ここにはリスクがあるぞ」という意思さえ伝われば、そのドキュメントは100点満点なのです。
このマインドセットの切り替えができれば、英語への恐怖心は消え、代わりに「伝えたい」という熱意が前に出るようになります。
Action Plan:明日から始める「MVDP」3つの習慣
では、具体的にどうすればいいのか?
明日から現場で実践できる、3つの習慣を提案します。
1. 「15分・1ページ」の原則(The 15-minute Rule)
新しい機能を実装する前や、複雑なバグ修正を行う前、いきなりコードを書き始めたり、長文の仕様書を書き始めたりするのをやめましょう。
代わりに、**「15分で読める、A4一枚(相当)のメモ」**を作ってください。
形式はMarkdownで十分です。以下の4項目だけを埋めます。
- Context(背景): なぜこれをやるのか?(例:ユーザーがログインできなくて困っている)
- Options(選択肢): 松・竹・梅の案。(例:A案はDB修正、B案はコード修正)
- Recommendation(推奨): 私はB案を推す。なぜならコストが安いから。
- Risks(リスク): ただし、B案だと将来的にパフォーマンス問題が出るかも。
これをSlackやTeamsに投げて、「Do you agree?(これでいい?)」と聞く。
これこそが、最強のMVDPです。英語で長々と説明する必要はありません。箇条書きで十分。これで合意が取れれば、後から「なんでこう作ったんだ!」と怒られることはなくなります。
2. 「脱・Word、入・Repo」(Docs as Code)
WordやExcelでドキュメントを書くのを、可能な限りやめましょう。
エンジニアである私たちにとって、最も快適で、最も管理しやすい場所はどこですか?
そう、Gitリポジトリの中です。
設計資料、API仕様、セットアップ手順。これら全てをMarkdownファイルとしてリポジトリにコミットし、コードと同じプルリクエスト(PR)でレビューしてもらうのです。
「Docs as Code」と呼ばれるこの手法は、海外ではスタンダードになりつつあります。
メリットは計り知れません。
- コードとドキュメントが乖離しない(修正漏れがあればPRで指摘される)。
- 差分(Diff)が見やすい。
- そして何より、私たちエンジニアが「書きやすい」。
「ドキュメントを書くためにWordを起動する」というハードルをなくすだけで、アウトプットの量は劇的に増えます。
私の現場では、WPFのXAMLの構造説明も、VS CodeのMermaidプレビューを見ながらMarkdownで書いています。これが一番速いからです。
3. コードレビューでの「Whyチェック」
あなたがコードレビュー(PRレビュー)をする際、視点を一つ加えてください。
「バグがないか」「コーディング規約通りか」だけでなく、
**「このコードから、書いた人の『意図』や『苦悩』が読み取れるか?」**を確認するのです。
もし、なぜそう書いたのか分からない箇所があれば、
「Please add a comment explaining WHY you chose this approach.(なぜこのアプローチを選んだのか、コメントを追加して)」
とコメントしてください。
これを繰り返すことで、チーム全体に「Howはコードで、Whyはコメント(ドキュメント)で」という文化が根付きます。
自分だけでなく、チーム全体をMVDP体質に変えていくのです。
Career Perspective:エンジニアとしての「生存」から「躍進」へ
最後に、少しキャリアの話をさせてください。
私は、「技術力さえあれば、言葉の壁は越えられる」と思って海外に来ました。
半分は正解でしたが、半分は間違いでした。
確かにC#のコードは書けます。でも、「どんなコードを書くべきか」「なぜそのコードが必要か」を合意形成できなければ、大きな仕事は任せてもらえません。
言われた通りのコードを書くだけなら、より単価の安い国のエンジニアに取って代わられるだけです。
私たち日本人エンジニアの強みは、繊細な気配りと、システム全体を見通す「設計力」にあります。
しかし、その強みは、アウトプットされなければ存在しないのと同じです。
沈黙は金ではありません。海外では、沈黙は「不在」です。
MVDPは、その「不在」を打破するための武器です。
流暢な英語でプレゼンできなくても、的確な図解と、ポイントを突いた短いドキュメントがあれば、あなたの設計思想は伝わります。
「彼のドキュメントは短いが、急所を突いている」
「彼に任せれば、手戻りがない」
そう評価された時、あなたは単なる「助っ人外国人コーダー」から、**「信頼されるコアメンバー」**へと進化します。
WPFのデータバインディングのように、あなたとチームの心がガッチリと同期(Sync)する瞬間です。
Closing:地図はあなたの手の中にある
全4回にわたり、長々とお話ししてきましたが、いかがでしたでしょうか。
「ドキュメント作成」という、一見地味で退屈なテーマ。
しかし、そこには異文化でのサバイバル術、エンジニアリングの本質、そしてチームワークの真髄が詰まっています。
これから海外を目指す方、今まさに海外で苦闘している方。
英語のハンデを嘆く必要はありません。
完璧な文章を書こうと焦る必要もありません。
深呼吸をして、キーボードに手を置いてください。
そして、自分に問いかけてください。
「今、チームに伝えるべき『最小限の真実』は何だろう?」
その答えを、たった数行、書き留めること。
それが、あなたの世界を変える最初の一歩になります。
さあ、エディタを開きましょう。
最高のコードと、最高の(最小限の)ドキュメントを書くために。
Good luck on your journey. Keep coding, keep writing, keep surviving.

コメント